健康で明るい未来

心と身体の健康を保ち、健康な人生を送れるようわかりやすく説明していきます。

弥生時代から平安時代に見る食生活と病気

 女優の岡江久美子さんが新型コロナウイルスで死去という報道には本当に驚かされました。PCR検査で陽性反応が出て、わずか三日間で容体が急変してのこととか。本当に残念なことです。

 世界中で260万人以上の方々が感染し、18万人以上の死亡が確認されています。このような病気による惨事は今までの歴史の中で何度も繰り返され、その後の世界を一変させたことを考えれば、今回も全く想像もしていなかった姿が現れるのでしょうね。

 過去の日本に目を向けてみれば、稲作の伝来とともに人々の食生活は一変し人口も飛躍的に拡大しました。しかし、常に病気や飢えとの戦いの連続でもありました。なんでも手軽に手に入る時代だからこそ、バランスの良い食生活を送るように心がけていきましょう。

 

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稲作の伝来によって激変した古代日本列島

古代日本人の生活を劇的に変えた稲作の伝来

 日本でコメが栽培されるようになったのは約3000年ほど前で、本格的に稲作が始まったのは弥生時代(紀元前300年から紀元300年の600年間)に入ってからです。弥生時代後期には東北地方の北部まで、稲作が伝わっていたようですから、この間に人々の食生活は木の実からコメ、稗、粟、小麦粉へという劇的な変化が訪れました。

 この当時のコメはもちろん白米ではなく、糠(ぬか)がついた古代米です。ビタミンやミネラルや食物繊維が豊富で、健康を維持するために重要な役割を果たしました。また、大豆や小豆といった豆類、桃や杏や柿などの栽培も始まっており、安定した食の供給が得られるようになりました。

 これによって平均身長が伸びたり、だいたい20万人だった人口が、弥生時代後期には70万人くらいにまで急拡大しています。

  ただし、縄文時代と弥生時代では平均寿命にそれ程の大きな差はなかったと考えられます。ある調査では縄文人の平均寿命は31歳、弥生人は30歳となっていました。食の安定が得られたのに、なぜ寿命が延びなかったのかというと、コメとともに日本にもたらされた病気が原因でした。

 

大陸から伝わった「結核」「天然痘」

 

結核

 遺跡調査によれば、縄文時代からは発見されていませんが、弥生時代からは発見されていますので、コメの伝来とともに日本に伝わったものと考えらます。

 現在に至るまで結核は克服することができず、毎年1万8千人が新たに発症し、1900人が亡くなっています。日本人は米国人よりも結核に罹りやすいようで、約5倍も発症しています。

 

天然痘

 この病気ももともと日本には存在せず、中国や朝鮮といった地域から渡来人の移動がさかんになった6世紀半、大陸から渡ってきたと考えられています。日本書紀に日本における最古の天然痘についての記録があります。

 とくにひどかったのは平城京のころ(735〜738年)で、西日本から畿内にかけて大流行したという記録があります。ウイルス性の感染症であるため、当然身分の上下に関わらず広く流行し、高位貴族(藤原四兄弟など)も天然痘によって死亡しました。なお、奈良の大仏を作った理由のひとつはこの天然痘の大流行によるものだそうです。

 この病気は、飛沫感染や接触感染により感染し、7日から16日の潜伏期間を経てから発症します。初期症状としては40℃前後の高熱、頭痛・腰痛がおこったのち、頭部や顔面を中心に、皮膚色と同じかやや白色の、丘疹(きゅうしん)と呼ばれる種類の発疹が出て、そしてその後全身に広がっていきます。

 天然痘の発疹は体表面だけではなく、呼吸器や消化器にまで出るというところが恐ろしいところです。肺が損傷した場合などは、呼吸困難などが発生することにより死亡に至ります。死亡率は20~50%に至る恐ろしい病気です。

 現在の新型コロナウイルス問題に輪をかけたような大パニックが発生したであろうことは、想像に難くありません。

 

 

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バランスの悪かった平安時代の食事

日本の食の歴史を変えた「肉食禁止令」

 671年に天武天皇は「肉食禁止令」を発布しました。これは仏教の普及によって、殺生を禁じる仏教の教えにより、牛、馬、犬、猿、鶏の5つの指定された動物を食べることが禁ずるというものです。この「肉食禁止令」は江戸時代の末期まで、約1200年間も続きましたので、その後の和食の歴史を大きく変えるものとなりました。

 

奈良時代の貴族の食事と庶民の食事

 奈良時代になると、玄米から胚芽や糠を取り除く技術が発達したので、白米を食べることができるようになりました。

 貴族は白米の他に魚や野菜、乳製品など品数の多い豪華な食事を食べるようになりました。

 一方庶民は白米を食べることはできなかったので、精米していないコメに雑穀を混ぜ雑炊のようにして食べていたようです。

 

欧米人にはない主食という考え方

 この時代すでに日本人の中では、主食は米という考えが確立しており、それは現在まで変わっていません。米の所有によって権力を握ったり、米で税金を払ったりと、米は食事だけでなく、権力のよりどころにもなってきました。

 ところが、欧米には主食という概念がありません。レストランでコース料理を食べた時のことを思い起こしていただければ、納得していただけるものと思います。

 パンは食事に添えられたテーブルの脇にあるもので、メインは肉や魚ですが、主食という位置づけはありません。地方によってはジャガイモを食べたたり、雑穀を食べたり、米も食べていますが、けっして主食ではありません。

 米を主食としているアジアにおいて、共通する考え方のようです。

 

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平安貴族は短命だった

 京都は海から遠いため、魚介類はほぼ干物として食すこととが多かったようです。また貴族は肉を食べる回数が少ないため、圧倒的にタンパク質が不足しており、栄養失調になることも珍しくありませんでした。

 平安時代の平均寿命は男性33歳、女性27歳くらいだったといわれています。三大死因は、結核、脚気、皮膚病だったようです。

 また、当時一般的なお酒として普及していたにごり酒も、糖度が35%もあるお酒でした。塩分や糖分を摂りすぎてしまい、糖尿病の症状が出る貴族も少なくなかったようです。
 女性の平均寿命が短い理由として、栄養失調になりやすかったという理由があげられており、平安時代の絵巻物ではふくよかな女性が描かれていることが多いですが、栄養失調によるむくみが原因だったのではないかといわれています。

 当時は衣類を何枚も重ねて着ていたことから、ふくよかというよりは痩せていたのではないかといわれています。

 一方庶民は、貴族とは違い、山野でいろいろな鳥や獣を獲られて肉を食べていました。また、貴族が脚気になり死亡することもありましたが、脚気はビタミンB1が不足してかかる病気でした。実は庶民が食べていた雑穀にはビタミンB1が含まれているため、貴族より健康的な生活を送っていたようです。

平安貴族「藤原道長」に学ぶ糖尿病

糖尿病の症状とその原因 

 今から千年前の貴族で時の最高権力者だった藤原道長は、「源氏物語」の主人公:光源氏の モデルだと言われています。62歳で亡くなったので、その当時からすれば長寿の部類かもしれません。

 しかし、彼の症状から、記録に残る日本最古の糖尿病患者だと言われているのです。

 【藤原道長の症状】

・のどが渇いて大量に水を飲む

・痩せてきて体力がなくなった

・目が見えなくなった

・背中に腫れものができた

【糖尿病の原因】

・過食

・運動不足

・過度の飲酒

【遺伝的要因】

 糖尿病のほとんどを占めるタイプの二型糖尿病は、遺伝的要因がかなり大きいといわれています。道長の伯父:伊尹(これただ)、兄:道隆(みちたか)、甥:伊周(これちか)なども「飲水病」であったと記録があり、道長は糖尿病家系であったようです。道長が糖尿病にかかってしまったのは遺伝の要素も大きかったと考えられます。

 

 最後に、私自身も約15年間糖尿病を患ってきました。発症当時は不摂生な毎日だったので、医師の進める通リ服薬と運動とお菓子を減らすなどで、ある段階まではスムーズに下がりました。

 しかし、ある段階からは血糖値が下がらなくなり、けっして正常値にはいきません。兄弟に確認してみると、兄弟たちも40歳を超えたあたりから血糖値が上がってきているとのこと。

 コロナ報道にもあるように、糖尿病のような持病があると免疫力が低下します。ぜひ、体が発するサインを見過ごさず、健康管理に努めてください。